中山久蔵について

プロフィール
中山 久蔵  (1829~1919)

松村三右衛門の次男として、大阪府南河内郡太子町に生まれる。
25歳で仙台藩士 片倉英馬に仕え、北海道の白老に渡った。
明治初年には北海道での永住を決意し,島松に移り住む。
1873(明治6)年苦心を重ねて北海道初の稲作に成功。
北海道に稲作が拡がる端緒となる。
1881(明治14)年には東北及び北海道を巡幸中の明治天皇が久蔵宅で休息され、金300円と御紋付き三つ組み銀杯を下賜される。
晩年は島松駅逓所を経営し、1919(大正8)年に没する。
現在旧島松駅逓所には中山久蔵とクラーク博士の記念碑が並び建ち、
2人の功績を讃えている。



島松村に入植した中山久蔵が、北海道の米づくりを広めた。


 容易ではなかった 北海道の米作り

河内からやってきた中山久蔵が島松川の流れる島松村(現・恵庭市)に入植したのは1871(明治4)年のこと。
先住民から「ウバユリの咲くところには肥えた土地ときれいな水がある」と聞き、約6,000坪の畑を開墾、雑穀80俵を収穫しました。

 当時、開拓使は「北海道は寒冷地のため、道南以外での稲作は不可能」と判断、家畜と畑作の

混合農業を導入。それでも、「米を食べたい」と願う人々に応えようと、久蔵は道南から耐寒品種「赤毛」の種もみを取り寄せました。

 入植してから2年後、対岸の月寒村(現・北広島市)に広げた水田に川から水を引き入れ、稲の試作に着手。水温が低くなかなか育たないため、苗代に風呂の湯を入れるなど、様々な工夫と努力を重ねました。

 その結果、一反歩二石三斗の稲を収穫。気を良くした久蔵は住居を月寒村に移し、より寒さに強い「赤毛」の改良を成功させました。

 久蔵が作った種もみは開拓農民に無償で配られ、
石狩、空知、上川へと、北海道の米作りは広がっていったのです。






北海道の開拓と稲作

明治2(1869)年、北海道に開拓使(現在の北海道庁)が設置されました。翌年開拓次官に任命された黒田清隆は、家畜と畑作との欧米式混合農業を北海 道に導入すべく、アメリカよりホーレス・ケプロンを開拓顧問として招き入れる。北海道は気候も冷涼なうえ、原始の姿を色濃く残していたため、本州のような 小規模水田農業は、成立させるのが非常に困難だったからです。

 
ケプロンのほか札幌農学校の教師を務めたウィリアム・ペン・ブルックスや、酪農を推進するためケプロンに招かれたエドウィン・ダンらの尽力もあり、北海道では徐々に洋風の作物が栽培されるようになり、畜産も発展していきます。またバターやソーセージなどの酪農食品も、製造されるようにもなりました。

 当時の開拓使は稲作を諦めて畑作を強制しており、稲作を試みた農民が投獄されるということさえありました。また札幌農学校の寮の規約には、「米飯を食すべからず」と明記されていたほどでした。しかし多くの開拓民は米食に憧れ、渇望していました。

 こうした状況の中、中山久蔵は北海道初の稲作に成功します。彼の成功を端緒として北海道でも稲作が広まり、遂に明治26(1893)年、北海道に稲作試験場が開設され、北海道庁(開拓使から改組)も寒地稲作を推進することとなります。

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